2021/04/06

認知症

 父さんの認知症に関して回憶を書いてみる

最初はいつだっけ.....盤古一年目くらいかな。2005年だっけ。
まだこのブログが始まった前のことでした。

父さんはちょっとボケしたかなと思って
話しかけても、正確に返事できなくて
俺は何回も同じ内容を話せないといけない。

昔に毎日の朝に必ず運動に行った父さんは
あれ、最近はなんかずっと家にいるよな
部屋でテレビばかり見ている。
食事も、雑に作って部屋に食べていた。

それでもまあ普通の生活していたので
毎日原稿が急げてる俺にあんまり気にしていなかった。

そして、父さんはどんどん母さんに怒鳴るようになった。
何かが不満がありそうだが、父さん怒る理由が言えないので
割とスルーしていた。

買い物は一応行けるけど、なんか力があんまりなくなっていく
最後のお正月に買い物に行くときに
なんか父さんはずっとボーッとしている。
何を買うのがよく分からないようで、
俺がそばに一緒に買った。

それからどんどんおかしくなっていく。
父さんは引き出しの中の写真をよく見る
母さんの写真を破る。自分の写真をそのまま見ている。

ある日、父さんは家の中にたくさんの写真を捨てました。
そのときに俺はすごく怒って、
一緒に探しに行け!と言いました。

そのときの父さんは、やっぱり自分の考えはうまく説明できない。

父さんは彼の姉さんの家に行きたいと言ったが
俺も一緒に行くときに、父さんは住所は忘れて見つからなかった。

そして外に行ったら迷うようになった。
俺も母さんも何回も探しに行きました。

見つけたときに、なんと何時間も道に徘徊しました
「なんでバスを乗って家に帰らない?金がないの?」
『...金は、あるよ』
父さんはそうと言いながら、レシートを見せました。

すでに金とレシートは区別できなくなった。
当時にゾッとしました。

それ以降、父さんの胸の前に住所をつけました。
迷子になっても誰かが家に送ってもらえるように。

盤古連載2年目の辺りに
母さんもう我慢できなくて、
俺は父さんを連れて引っ越しました。

ボロな1つ部屋を借りて
結構遠い場所に住んで、出版社に通勤しました。

父さんに仕事に行くから家に居て待ってと伝えましたが
父さんもう理解できなくて、
相変わらずたまに出かけて迷子になる。

その時期は、超短い単語ならギリギリわかる。
父さんは相変わらず食欲旺盛でした。
食事に連れていくのは、その時期の最後の楽しみ。

父さんに『美味しい?』と聞いたら
『美味しい』と返事した。


昼間にずっと一人に家にいる父さんは寂しくて
『家に帰りたい』と、ずっと言い続けた。

そのときに俺はすごく悩んで
貯金もどんどん減って、毎日に仕事に行かないといけないし
正直父さんの介護に心が余裕がなかった。

もちろん家に帰らせない。

ある日に、父さんは『ねえ、一緒に屋台とかやろう』と言いました。

........もうまともな思考できない父さんでも
俺が金がないから彼をこんなのボロ部屋に放置していることを
ギリギリ理解しているらしい。
だから、一緒に金を稼ごうとする意思を俺に伝えました。

記憶の中に、これがほぼ最後のまともな会話でした。

その時期に父さんは認知症ってことを分かりました
本を読んで、これは俺一人でどうかになる病気じゃないと知って
大至急に病院に送って検査してもらった
時計を描くという検査がある、
その時点に父さんはかいて時計は2のタイプだった。

そう、時計の数字ですら正しく描けない。

あと1つ検査は
医者は『35-7は?』と簡単な計算を質問

父さんは「28」と答えた

でも『28-7は?』2回目で間違って「30」逆に増えた
3回目の質問で『30-7は?』と聞いたら
父さんは....確かに「200」を答えました。

これが認知症か....側に聞いてた俺がゾッとしました。

『相手は計算の質問しているから、自分も数字を答えなくちゃ』
くらいは理解している。
でも計算できる能力は、ほぼ残られてない。



病院にいるときにずっと「帰りたい」と言いながら
どんどん悪化していく。自分でトイレできなくなった。

そのあと、
老人ホームを見つけて父さんをそこに送りました。
やっとほっとした俺は、
あれからほぼ父さんを老人ホームに放置して仕事を続けた。
たまに見舞い行くくらいしかやれなかった。

そしてすぐ、父さんは歩けなくなって寝たきり。
会話も完全にできなくなった。

その状態で、死ぬまで6年も続いてた。

父さんにすごく申し訳がない気分でしたが、
今で考えても俺はあれ以上にできることがあんまりなかった...

それでも、もっと幸せしてあげたかった。

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