古代の中国では”吾”は日本語の”私”と相当。
何故”吾”だろうと思った。
ありえないけど、まさか”五人”だからかな。
つまり”家庭単位”で人として見られる事かなって。
ちょっと前に考えてた事。
昔に、人間は”一人じゃ人ではない”
というイメージが持っている。
人間は最初の頃は集団。
個体の独立存在ではそんなに認められない。
独立の意識と思考でさえ、思ったより遅いに確立したもん。
そんなに考えなくでも、やるべき義務をやればいい。
仕事したら食べられる、子供を作れば種は続けられる。
通常定義の人間は独立な個体だが
一人じゃ上手く運転できない人が殆どです。
例えば教育程度が高い人思考は出来ても、
感情的に一人じゃ生けません。
もっと昔の教育レベルなら
本当に家庭単位じゃ絶対に生きられない。
個人的に考えてだが
自然の状態なら五人で一人なら
満足の教育でもせいぜい一人で半人前じゃないかなと思う。
一部の人が一人で一人になると思うけど
そんなの人じゃ、社会的にいらないかなと思った。
そんな人は他人を必要と思わないの同時、
必要されていないになりやすいじゃないかな。
大抵な人間は自分思ったような偉いじゃないと思う。
今まで数千年の遺産で、人間はやっと半人前になる所です。
ほん20世代の前に
我々はまだ”神の子民という集団の存在”だ。
一人単位の人間扱いはまだ普及していないです。
一人じゃまるで何でも言えない。
言い出せるのは”情報交換”です。思考ではありません。
思考したから出した言葉を言えるのは
せめて詩人くらいレベルじゃないと
文字通りに”話にならない”ようだ。
現代では簡単に大学に行っても、
基本的にあくまでも知識と技術を覚えるためです。
思考を言葉に変わる人は依然限られていると思う。
必要性が低いからね。そんなに難しに考えなくでも生きる。
古代の詩人は素晴らしい言葉を残した。
どんな時代でも、そんなの人が存在しています。
しかし、もしかして本当にずっと思考を続く必要の人は
ほん一握りじゃないかなと思う。
大抵の人は、自分の幸せのために
精一杯に頑張って仕事すればいいと思う。
おそらくこの先でも
人間はずっと感情的、何人を集めから初めて一人になるが
もしかしてこれはかなり合理的かもしれない。
だからさ、人間は啓蒙時代のお陰で
昔より賢くなった、みんなは独立に考えるほど偉くなる訳がない
(というか思考できる=偉いの事自体は違う気が.....)
産業革命のお陰で収入は格段に跳ね上がる、
一人で楽に一人の生活必要金額を稼げても
誰も立派な一人前になる訳じゃないと思う。
基本的に、独りじゃ一人になれない事。
この意味じゃ、昔のイメージが正しいかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿