今回のテーマは霍安と盤古の攻防。
物語では、ようやく”妖怪”の話を触った所も重要。
一番難しいのは、この1回で盤古と霍安の”分かり合い”。
妖怪の立場に寄りで、神と妖怪の橋になった霍安と
神寄りの立場で、妖怪を知るようになる盤古。
この対比で繋げた関係を立ち上がるのは今回の見所。
そのため、盤古の心理描写は命。
今まで”悪”に居た妖怪を知らないようにする盤古は
霍安の心を知った、その一歩を歩き出す。
妥協や謀略ではなく、本当に分かり合う。
そこにまだ難しいテーマに当たる。
道徳観は持てない妖怪を”認める”のは危険な匂いがする。
人間標準ではそれ怖い。
ちょっと昔の経験を思い出す。
裸足で、都市の街並に歩く事。
あんまり知られないと思うが、裸足で歩くのはそれなり気持ちが良い。
しかし不思議のは今の時代じゃ殆ど人は裸足で外に歩けない。
まあ汚いや危険だからもあるけど
一番の理由は”誰もそうしないだから”。
法律的に全然禁止されたいないが、道徳的に許されていない。
でもそれが悪いのか?と聞けば、決して悪いと言えないでしょう。
しかし暗黙ルールで禁止されてた。
携帯もそうだった。学生時代は嫌い、今でも好きじゃなかった。
でも持たないようにすると周り人に叱られる。
人の都合も考えよう、と。
俺は、1ヶ月に携帯を使う回数は2~3回しかない。
基本的に会社以外に居る機会は1ヶ月に5回くらい。
その内に携帯で連絡を取らないと不便になる場合はせいぜい1回。
別に持たなくでも会社と家の電話を使えば充分のレベルなのに
強制に持たせたと同然。
こんな風で、実は色んな事は”可能””悪いじゃない”だけど
何となくやりづらい、何となくやらない方がいい、という音は多かった。
基本の理屈はそう。
もう少し広げれば”普通じゃない”事は、居場所もあるべき。
妖怪の場合は歪み。神のようにストレートな直線になれず。
道徳観は持たない事は、確かに怖い、確かに悪いかもしれないけど
”要らない”にならないし、”無し”になれない。
だったら、その処置を考えるべきと思う。
自分の目と体で。
この意味では、高く場所から見ると”小さくなる”ではなく
”広く感じる”のがポイントと思う。
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