2011/06/06

一歩下がって、一人でもより多く

4回戦の序盤は、盤古の信念を見せる所。

焦猛、陶隱と公羊善は試験玉が足りなくて
3人が落ちそう所で、
盤古は1つ玉渡すだけで3人の玉を全て揃うようになる。

ポイントは極めて低いリスクで、多く利益を取る所。
例えばその利益は自分のモノではなくでも。

4回戦の状態は、盤古の目的は出来るだけ人を合格させる事。
盤古自身はもちろん、呉鎮を合格させるつもり。

楽石と裘青は人質になった所で、互いに牽制されてる
盤古は、馬賢も呉鎮も合格すれば全て問題は解決できると思う。

.......全て人は幸せなんて、あり得ない。
人間は、自分の幸せって精一杯なんだ。普通はそう思う。

でも、ここではちょっと違う話と思う。

最初は誰でも自分で精一杯だった。

しかし恋人を見つけて初めて2人に、
子供も生まれて人間は出来るだけ、3人も4人もの幸せを作るようになる。

親は年になって介護が必要になった時は
5人も6人も7人の幸せが肩にかかっている。

能力がある人は、仕事場でさらに人の力になって
そう考えれば十数人の幸せが自分にかかると言えると思う。

つまりさ、”全て人と自分だけ”の間に”どれくらい”幸せがあったのか、
そして自分はどこまで出来るのか、という事があるんだ。

友達までカバーするのは精一杯、という言い方は聞いたけど
それはできないというか、友達以外はどうでもいいのが本音と思う。

とにかく一人でも多く。

俺は、
”自分は幸せになったから人を幸せを考える”という考え方は反対。

こういうモノは、同時にやるべきだ。
自分の幸せを追う時に、人の幸せも考えて欲しい。

一歩だけ下がると相手は幸せになるなら、一歩くらいやってやる。

普通は”調子に乗って、譲歩を強いられる”事を恐れているけど
それもある意味は言い訳と思う。
それくらい自分でちゃんと理解すればいいじゃん。

自分幸せになったら、友人に幸せ、それできたらもっと無関係の人に...
こういうモノではない。

だって、野良犬を見たら助けたい時は
こういう順番は無意味じゃないか。

犬だよ?友達じゃないよ?人間すらないよ?助けるの?

順位より比例、という考え方だってある。


ちょっと別の話だが、我侭も必要と思う。
人を想う、という優しさだけじゃ足りない時はかなりある。

しかしさ、我侭は”何を対して”によって価値が変わると想う。

残神の論理では、残(足りない)部分はあるこそ
持っているモノを考える。

だから、”とても幸せ”という事は無くでも大丈夫。
遺憾はあっても良い。じゃんじゃん働いて金を持つだってOK。

でも、人を想う事は必要。
自分以外の幸せだって、しっかり考えるべきだと思う。

”それは嫌い”事自体、描けないため
逆に”これが素晴らしい”という方向で描くしかないなぁ。

0 件のコメント:

コメントを投稿